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新藤兼人

1912(明治45)年−
広島市生まれ。  
1950(昭和25)年に独立プロ「近代映画協会」設立し、1952(昭和27)年には「原爆の子」が
チェコスロバキア国際映画祭グランプリ、英国アカデミー国連賞を受賞。  
1960(昭和35)年「裸の島」が、モスクワ国際映画祭グランプリ受賞、同賞は1999(平成11)年に
「生きたい」で 2度目の受賞を果たした。
1977(昭和52)年には、高橋竹山の生涯を追った作品「竹山ひとり旅」をモスクワ国際映画祭に出品した。
2002(平成14年)、文化勲章を受章。
一貫して人間の内面をテーマとした作品づくりに当たり、その根底にある人間に対する深い信頼と愛情で、
多くの人々に幅広い共感を得ている。

竹山と私  新藤兼人

 渋谷のジァン・ジァンという地価の小劇場で高橋竹山の津軽三味線に魅せられた。
シナリオを書くために、小湊へ竹山を追って行き、竹山と炬燵にあたって話しこんでいるうちに、すっかり虜になってしまった。

 竹山は門づけ遊芸人であったから、青森をながし北海道をまわった。四季をとおして下駄だった。鼻緒が切れるから針金にしたという。ぶったまげた。大地にあぐらをかいたような人だと思った。
  三味線というわたしの概念は、お座敷芸の粋であったが、竹山の三味線は野の風の中の生活のためのものだった。だから激しくて優しいのだ。
  竹山の映画をもってモスクワ映画祭へ行ったとき、日本大使館で披露した。同席したモスクワ音大の教授は、吸い寄せられれうように撥さばきに顔を近づけ、その妙技に身じろぎもしなかった。
  竹山の腕は太いから、わたしがつい「この手首ならいつまででも弾けますね」というと「三味線は力でねえ、バネだ」と 一喝くらった。技術が弾くのである。

 映画は雪の場面が多かったから、撮影は困難を極めた。十三湖の海辺は烈風で空も生みも灰色、怒涛のなかから雪の礫が飛んできた。俳優もスタッフも、風の中に立ちすくんで、一コマ一コマと撮りすすんだ。
  竹山も、このような中で、一握りの米を恵んでもらうために、家々の門に立って三味線を弾きつづけたのであろうか。竹山はのちに名人と呼ばれるようになったが、名人になるために竹山は三味線を弾いたのではない。生きるために弾いたのだ。
  竹山のたくましさは、人生のどん底を覗き見たものの強さだった。
  映画は竹山の足跡をたどるようにして作ったが、竹山のふところは、いくらはいっても壁というものがなくはかりしれない大きなものを感じた。映画の外でもわたしたちは竹山から多くのものを学んだ。

 映画「竹山ひとり旅」は、わたしの代表作の一つである。  (東奥日報社刊『魂の音色』寄稿)

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