
<< 最新刊 >>

表紙デザイン/佐藤 公之
発行所 ノースプラットフォーム
葛西梧郎
1946年青森市生まれ。
1969年東京写真専門学院 [現東京ビジュアルアーツ]卒業後、青森放送(株)入社。
1978年テレビドキュメンタリー「美土里君の海外旅行」でギャラクシー選奨。
1981年同「下北能舞伝承」で地方の時代映像大賞受賞(いずれも撮影担当)
また、CMディレクターとして、ACC全日本CMフェスティバル地域CM部門大賞、
日本民間放送連盟CM部門最優秀賞など受賞多数。
著書に写真集『竹山津軽三味線』 『津軽残照』
「デジタルフォト青森」会員
●使用カメラ
フィルムカメラ:トヨビュー4×5/アサヒペンタックス6×7/ニコンF/ニコンF2/ニコンF100/ニコンFM3A
デジタルカメラ:ニコンD200/キャノンD7/オリンパスFE−120
写真集『竹山津軽三味線』 あとがきより
そこで、当時は今日ほど有名ではなかった高橋竹山さんを、"津軽の顔"として撮ることに決めた。竹山さんは、青森放送のラジオやテレビにたびたび出演していたので、ある程度の面識があり、説得には多くの時間を費やすことはなかった。
「竹山先生、写真コ撮らせでケネ」
「ああ、何んぼでも撮れじゃ」
竹山さんは快く引き受けてくれた。そしてさらに「何百枚も、何千枚もですよ」と付け加え、長時間になることの了解をもらった。
竹山さんの三味線と、津軽の風土がオーバーラップし、撮影は進んだ。竹山さんの自宅で、演奏先の舞台でハイキングの山で…。写真の数だけは、百枚二百枚と増えていった。
青森放送が昭和47年に制作した、芸術祭テレビドキュメンタリー部門『寒撥』のスタジオスチールも、ディレクターにお願いして撮らせてもらった。朝、竹山さんのお宅に伺って、一枚も撮影せずに、竹山さんが苦労した昔の話に耳を傾けたこともあった。北海道のニシン場へ出かけて門付けして回った話。目が不自由なために、近所の子供たちに石を投げつけられた話。雨の日には、三味線の皮がはげてしまうので、上手に吹くことのできない尺八を買って門付けした話 ― そうした話を、竹山さんは夜まで続けてくれた。
数千枚の写真の中に、"津軽総合曲"を演奏している時のものは一枚もない。シャッターを押す前に、曲の中にのめりこんでしまうのと、シャッター音が聞こえてはと、押せないのである。演奏中の顔を望遠レンズでのぞくとき、竹山さんの顔が仏陀の顔に見えることがある。それは、恐ろしいまでの"無"の表情の時である。また、荒々しい肌には、六十余年の苦労の年輪も刻まれていた。粗雑な、私の一枚一枚の写真からは、竹山さんの一の糸の響きも、卓越した撥さばきも汲み取ることは出来ないかもしれないが、少しでも多くの人たちに、竹山さんを知ってもらい、津軽を知ってもらえればと思う。