
佐藤貞樹
1926(昭和元)年−2001(平成13)年
青森市生まれ。
1955年青森芸術鑑賞協会の設立にかかわり1981年まで事務局長として働く。
その間数多くの音楽・演劇などの鑑賞会を開く一方、
1970年代はじめから高橋竹山の三味線を全国に紹介することに力をつくした。
1981年以降はこの仕事に専念、1998年竹山死去まで行を共にした。
著書に『自伝・津軽三味線ひとり旅』の聴き書き、
『おらの三味線いのちの音だ』『高橋竹山に聴く-津軽から世界へ』などがある。
【竹山記念資料室】
1987年、佐藤貞樹氏が夏泊(青森県平内町)に開設
佐藤貞樹氏が竹山の勉強のために購入した2000枚を超すレコードと膨大な演奏記録が保存されている。
佐藤貞樹氏没後は、夫人の陽子さんによって守られている。
![]() |
![]() |
所蔵資料 | 寄贈された竹山のブロンズ像 (制作:彫刻家 村田勝四郎) |
高橋竹山 佐藤貞樹
明治43年、青森県東津軽郡の小さな村に生まれた(現平内町小湊)。家は貧しい小作農家だった。
二つか三つの時、麻疹(はしか)をこじらせて半ば失明。小学校にも行けず、数え年の15歳のとき、
門付けのボサマ(盲目の芸人)の住込み弟子となり三味線を習う。三味線はきらいでなかったが、
乞食のような門付けをするのが恥かしく、何年もためらった末、生きるために仕方なく選んだ道だという。
弟子といえばきこえはいいが、三味線を習うということは師匠のお供をして各地を門付けして歩くということであった。
17歳で独立。三味線を背負って独り、北海道、樺太、東北地方などを門付けして歩いた。
門付けのできない時は飴売りやインチキ物売りなどをしたり、喰うためになんでもし、
雑草のようなたくましい生活力で苦難の道をきりひらいてきた。そうした中で尺八もひとりで覚え、
浪花節の曲師をやったり、民謡の座敷打ち一座に加わったりしたが、戦争でいよいよ三味線が弾けなくなって、
35歳で八戸の県立盲唖学校に入学。6年をかけて点字を学び、鍼灸・マッサージを習得した。
戦争が終わり、再び民謡が人々に求められるようになって、その三味線は水を得た魚のように生き生きと歌いだし、
人々の注目を集めるようになった。鑑賞団体の行う音楽会にも積極的に参加し、若い新しい聴き手と出会う中で、
津軽民謡の伴奏にとどまっていた津軽三味線をひろく音楽の世界につれだした。
三味線を手にして70年。唄のかげにかくれていた素朴な民謡三味線に複雑な技巧と工夫を加えて独自の奏法をつくりあげ、
独奏楽器にたかめた功績は大きい。その太棹にひびく豪快華麗な演奏は民謡のいのちともいうべき民衆の心をうたいあげ、
一度きいたら忘れられないヒューマンな魅力にあふれている。ゆたかな人生体験にうらづけられたその音楽は卓抜した撥さばきと相まって、
大地に根をはったようなゆるぎない存在感で人々をとらえてはなさない。その音楽の特色は、洗練された音楽性と現代性にあるといわれ、
津軽という地域や世代をこえてひろく全国的に大きな評価を得ている。
※平成7年平内町名誉町民称号授与式資料
『高橋竹山青森ライブ』 ライナーノーツ 「流れきて 流れさる」
1974年9月10日、高橋竹山演奏生活五十周年記念の演奏会が、青森市民会館大ホールで開かれた。
この夜は竹山の横笛で幕があがった。村のまつり囃子(ばやし)だそうだが、下北半島の権現舞(ごんげんまい)の笛とそっくりの、
うら悲しく哀愁にみちた旋律だ。若いころ下北を歩いたときに耳に覚えた節だろうか。
自分でもねぶたをつくったほどまつりの好きな竹山だ。笛は子供のころから吹いていて、まつりの行列について歩いたという。
ふるさとを捨てた門付けの旅にあけくれ、まつりの季節がくれば村に帰りたくてひとり泣いた、それがいちばんつらかった、
そう語りながら竹山は一瞬絶句した。笑ってごまかそうとしたが、ぎこちないつくり笑いだった。客はひとりも笑わなかった。
語る方にも聞く方にも辛い話だった。本来めでたかるべき記念演奏だったが、少しも華やいだものはなかった。
青森での、この夜の演奏会はそんなふうにはじまった。
だが、五十年という区切りをつける以上、話はそこから始まるしかない。そこからはじまった五十年の、しかし、何を記念するというのか。そして誰が。
わずか十五才の半盲の少年が一人で生きるために・・・それはホイトと軽蔑された門付けをして歩くことだった・・・いやいや手にした三味線だったのだ。
泥にまみれた半生、などといえるものでなかった。耐え難い屈辱と貧困のなかを彼はつき抜けてきた。名人とうたわれ、マスコミでさわがれようと、
竹山にとってそれはどうでもいいことだ。たかが津軽のボサマのくされ三味線でないか。そういった自嘲は実は強烈な開き直りなのだ。
それは、私には、"お前さんにこの三味線がわかるか"、といっているようにきこえるときがある。なにをいまさら五十年記念だなんて。
その日のくらしを稼ぐ、生活のための三味線であることには、むかしもいまも変わりないではないか。だが、一棹の三味線が私たちをひきつける力の凄さは何と言ったらいいだろう。
青森市の県立郷土館を訪れる人は、静かに館内を流れている尺八の音を耳にするはずだ。風のごとく、水のごとく、流れきて流れ去る尺八の、
そのいやみのない自然な音、それは竹山の吹く尺八の音だ。誰に習ったのでもなく、門付けしながらひとりで覚えたという尺八の、なんと心にしみることだろう。技巧でない、人の声よりももっと人くさい音。これがうたであり、楽の音というものだろう。竹山の三味線もまた、うたであり、詩だ。
あれは、糸が鳴っているのでない。太棹の堅木が泣いている音だ。
青森での演奏会はやりづらい、と言っていた。やっても人が入らないよ、とも言っていた。地元というのは身近すぎるのか、知らなくてもよく知っているような気になるものだ。
青森で年に一回ぐらい、それも二、三百人のこじんまりとしたところでやっていたのだから、多くの人は竹山の生の音はきいていない。
千四百席あるこのホールも、できて十数年にもなるのに、ここでの竹山の演奏会はこの夜が初めてだ。さすがに満席の盛況だった。
そして、若者も多く、いい客席だった。竹山も珍しく気負ったところがあったり、予定にはなかった古い唄を自分でうたったり、いつになく融けこんだふうだった。
やはり、おなじ津軽のことばを話す者どうし、という気楽さもあったのだろうか。あったかい雰囲気だった
嘲笑と辱めを逃れて他国を放浪した竹山にとってふるさとはつめたいところだたが、この夜はやさしかった。
五十年を三味線と二人で歩いてきて、そのふるさとの大きな舞台でひとり三味線を弾く竹山の見えぬ眼に去来した思いは何だったろう。
ながくもあり、また、すぎてしまえばみじかい五十年でもあった。
※『高橋竹山に聴く』所収