函青くに子の一座に雇われ、山形、宮城、北海道、樺太方面を唄会の興行で歩いた。また、座敷打ちと称する小興行で村々を回った。
興行のないときは一人で門付けをした。
3月、岩手県三陸沿岸の村々を回っていた時、三陸大津波 *3 に出会い、九死に一生を得た。
*3 三陸大津波:津波の波高は高い所では25mにも達した。死者約 3000人、流失・倒壊家屋 約7300戸
青森県東奥日報社主催の第一回青森県下民謡大会で三味線を弾いた。
熱狂的な唄会ブームの始まりとなり、民謡大会は毎年開かれることになったが、それ以降参加せず、門付けを続けながら、浪花節の三味線を独習した。
浪花節の三味線弾きとして座に雇われ、北海道、東北、信州、関西方面を転々とした。
東平内村清水川のナヨ(同年齢でイタコをしていた)と結婚した。
中国満州地方を浪花節の慰問、興行で歩いた。
成田雲竹の弟子たちの民謡興行に頼まれ各地興行のほか、東京浅草オペラ館、大阪浪速座等で働いた。
このときオペラ館で梅田豊月と偶然再会した。
4月、戦争の激化で三味線では生活できなくなり、鍼灸師の資格取得のため県立八戸盲唖学校に入学。
盲唖学校では、勉強の方はあまりはかばかしくなかったが、年長者であったため、生徒や先生の相談にのったり、
配給の食料の確保に奔走したりなどした。
7月、八戸も空襲を受け、盲唖学校は休校となり小湊へ帰った。
終戦後、進駐軍から三味線の演奏を依頼されるようになり、謝礼でもらった食料を盲唖学校に届けさせた。
成田雲竹の伴奏者として行を共にする。津軽の古い歌や雲竹の作曲した新曲に三味線の手を付け、津軽民謡の普及に尽した。
雲竹の付けた竹山の号はこのころから名乗った。
10月、ラジオ青森が開局。雲竹と共に番組に出演する。
RAB青森放送主催の県民謡王座決定戦の予選では出場者の伴奏を一人でやり通した。
ラジオ青森「民謡教室」スタートする。雲竹と出演し、人気番組となった。
※当時の音源は日本コロンビア『民謡うたがたり』(1)・(2)・(3)・(4)・(5)に所収
9月26日、汽船洞爺丸遭難。妻ナヨの母と姉を亡くす。
日本民謡協会から三味線技能賞を受けた。
キングレコードの若きディレクター斉藤幸二により、『津軽三味線 高橋竹山』が制作される。
津軽三味線の独奏だけの収録という初の試みであったが、発売2年で7万枚を売り上げる大ヒットとなった。
母・まん死去。享年86歳
仙台(塩釜)労音の民謡例会に成田雲竹と共に出演。
労音の聴衆の前で初めて津軽三味線の独奏を披露し、大きな反響を得た。
これ以降、毎年全国各地労音に招かれて出演するようになった。
雲竹はこの年、北海道に移住・引退し、雲竹・竹山のコンビが修了することとなった。
仙台を拠点にする民族歌舞団ほうねん座と行動を共にする。
全国労音の伝統音楽研究会に須藤雲栄と共にゲストとして招かれた。
内弟子第一号 伊東竹味(現・高橋竹味)が小湊で内弟子生活に入った。